身終いのすすめ

美しい身終いとは



死について語ることや準備をすることを「縁起が悪い」と考える人が多いようですが、
生きている間に「終わりの準備」をしなかったばかりに、
残された家族を困らせてしまうことがあるとすれば、
それを自分で準備しておくことは、逆に「縁起が良い」ことだと思います。

身終い」とは、まさに自分のことはきちんと始末をしておくこと」。
そして、この世を去った時、誰にも迷惑を掛けること無く
残した家族や友人たちへの愛情や感謝の気持ちを、きちんと残すための作業なのです。

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こんな言葉があります。

あなたが生まれたとき、
あなたは泣いていて、周りの人たちは笑っていたでしょう。

だから、いつかあなたが死ぬときには、
あなたが笑っていて、周りの人たちが泣いている。

そんな人生を送りなさい。


「美しい身終い」とは
いつか死を迎えるための「心の準備」をすることで、
残った人生を心残りの無い、清々しい気持ちで過ごすこと。

いつアチラ側からお迎えが来ても、
「ハイ、待っておりましたよ!」と
笑って人生のピリオドを打てるような準備をすることだと私たちは考えます。


< あなたはいつ死にますか? >



あなたがもし「あと一週間で死ぬ」ということを知ったなら、
その一週間をどう過ごすのでしょうか?

「やっておかなければならない事を考え、必死で過ごすだろう」

「きっと、大切な人や、会っておきたい人と過ごすだろう」

それとも、中には
「あがいてもどうしようもないなら、普段通りに過ごすだろう」
なんて方もいらっしゃるかもしれません。


では・・・あなたの命が

「あと一ヶ月」だったら・・・?

「あと一年だったら・・・?」

「あと10年」だったら・・・?

きっと、皆さん想いと行動はさまざまでしょう。


ガンなどの深刻な病と闘っている方たちは、
「死」という現実と、日々向き合いながら生きていらっしゃいます。

「余命一年」というような末期ガンの宣告を受けたとすれば、
おそらく「その一年をどのように過ごそうか?」と
自分に残された時間を私たちが想像もできないほど、大切に使われる筈です。


ところが、深刻な病を患っていない私たちの多くは、
仮に自分の年齢が平均寿命をすでに過ぎていたとしても、
「死」というものを現実としてとらえることができず、
残された時間というものを真剣に見つめようとはしないのです。

誰でも若いうちは「死」などというものを考えることもなく、
やっと中年にさしかかる頃になってはじめて
自分の死ということを意識せざるを得なくなります。

とはいうものの、
誰も「自分の命があとどれくらい残っているのか?」なんて知るすべもないのですから、
それを考えることで不安を感じ、
その不安と向き合うことへの更なる不安によって
「死」という現実から、無意識に目をそらしているのかも知れません。


誤解されてもいけないのですが、
ガン等の重篤な病を抱えた方達が「余命を宣告される」ということは、
ある意味「自分の命を精一杯使うためのチャンス」を神様に与えられた、
幸せな方達ではないのだろうか?などと、ふと思ったりします。

もとより、余命宣告を受けた方やそのご家族が
自分たちを「幸せな人間」だなんて思われるはずもありませんが、

しかし、考えてみれば
私の友人が何かの病で、仮に「あと1年」という余命宣告を受けたとしても、
健康であるはずの私が、その友人よりも長く生きるという保証など、どこにもないのです。

もし、私も同じく一年後にこの世を去ることになったとしたらどうでしょう。

一年という自分に残された時間を、心から有意義に過ごすであろう友人と、
死期を知らずして、同じく一年という時間を過ごした私では
きっと命の使い方に、大きな違いがあるように感じてしまいます。

だからこそ、「余命」というものを知ることができない私たちは、
日々与えられた毎日を感謝しながら、
いつ死んだとしても悔いのない、有意義な時間を過ごすための
心の準備をしなければならないと思うのです。